上部の影
レシピに込められた物語 トップへ戻る 川崎大師平成グルメ創作フェア オリジナル創作レシピによる試食会
レシピに込められた物語大師ゆかりの食材試食メニュー紹介アクセス
大師ゆかりの食材
梨(長十郎)いちじく久寿餅わらび餅
飴海苔蛤
梨(長十郎)
梨(長十郎)

かつて多摩川下流の神奈川県川崎区大師河原の広大な河川敷一帯は、梨の一大名産地でした。大師地域での梨づくりは江戸時代に始まり、明治時代に入るとますます盛んになりました。明治26年(1893)、現在の日ノ出町の当麻辰次郎の梨園で発見されたと伝えられる新種は、同家の屋号から「長十郎梨」と名付けられました。長十郎梨は多摩川を北上するように栽培地が増え、「多摩川梨」というブランドも生まれました。長十郎梨は、大正初期には全国の梨生産量の8割を占める人気品種になりましたが、川崎区では工業化が進むに従って次第に梨園は姿を消し、現在では川崎市多摩区でわずかに栽培されるだけになりました。
長十郎梨の特徴は、大ぶりでごつい姿と、やや硬めの食感と控えめな甘さ。今でも長十郎梨のファンは少なくありません。

いちじく
いちじく

かつて大師河原地域では、いちじくの栽培が盛んでした。同地域での梨の栽培が大正末期に衰えていきますが、それに替わっていちじくや桃、ぶどうなどの栽培が始まりました。この中で最も盛んとなったのがいちじくでした。
いちじくには、多量の糖分と少量のビタミンB1、B2、微量のビタミンC、カルシウム、鉄分などの他、ペクチンという食物繊維が多量に含まれています。このため、腸の運動を活発にし、便通を整える効果があるとされています。
原産地はアラビア南部とされ、不老長寿の果物とも呼ばれているいちじく。完熟したいちじくの、ほどよい甘さと独特のほんのりした香りを味わってみませんか。

久寿餅
久寿餅

川崎大師のお土産代表格、それが「久寿餅」です。
元来の「葛餅」の由来は、万葉の時代、秋の七草のひとつである葛の根から葛粉が作られ、これをこねて餅にしたのが始まりとされています。
「久寿餅」の由来は、江戸時代の天保の頃、大師河原村に住んでいた久兵衛という男の物語にさかのぼります。久兵衛は納屋に小麦粉を蓄えていましたが、風雨の強い夜に濡れてしまい、しかたなくこれをこねて樽に移し、水に溶いて放置しておきました。翌年に飢饉が起こり、樽に移した小麦粉のことを思い出した久兵衛は、樽の底に醗酵したでんぷんが沈殿しているのを発見します。
これを加工して蒸し上げたところ、風変わりな餅ができあがり、時の川崎大師平間寺三十五世貫主・隆盛上人に試食してもらったところ、隆盛上人は、淡白にして風雅なその味を絶賛し、川崎大師の名物として広めることを薦めたといいます。
久兵衛の「久」の字と、無病長寿を祈念した「寿」の一字とを合わせた久寿餅。でんぷんの淡白な味は、今も昔と変わらない味わいを醸し出しています。

わらび餅
わらび餅

ワラビの地下茎を叩いてほぐし、洗い出して精製、乾燥させたデンプンであるわらび粉が使われるため、この名がつきました。本物のわらび粉は、同じような方法で葛の根から得られるデンプンの葛粉以上に、原料の採取や製造に手間がかかることから希少で高級な品となり、江戸時代には既に貴重品だったそうです。
わらび餅は、わらび粉、水、砂糖などを加熱しながら透明になるまでかき混ぜ、冷やし固めた、見た目にも涼しげな和菓子です。
現在、多くのわらび餅はわらび粉の代わりにサツマイモやタピオカから取られたデンプン、または葛粉を材料にして作られ、本物のわらび粉で作ったわらび餅は希少な高級品となっています。

飴
飴

川崎大師の仲見世周辺には、「とんとこ飴」「さらし飴」「せき止飴」といった名前で飴を売る店が立ち並んでいます。
日本で古くから伝わる飴は、デンプンを糖化して作る茶色っぽい水飴がルーツです。その水飴を固めたものが、さらし飴です。水飴に含まれるブドウ糖、麦芽糖、デキストリンなどの成分は栄養価が高く、飲み込むときにも口の中や喉を保護する粘り気があることから、江戸時代には漢方薬のような扱いをされていたそうです。
川崎大師の参道では「飴切り」のリズミカルな音が響きます。一般的には「切る」という言葉は忌み嫌われますが、江戸時代から厄除けで人気を集めている川崎大師では、「飴を切る」が「厄を切る」に通じることから、人気の要因となっているようです。

海苔
海苔

かつての大師河原村の多摩川では、明治の初めから海苔の養殖が始まりました。大師の海は、多摩川の真水と海水がほど良く調和し、質のよい海苔を養殖するのに適しており、大正の初めになると東京湾内でも有数の海苔の名産地となって、「大師のり」はブランド品として扱われるようになります。
昭和初期になると、大森方面から伝わった「竹ヒビ」に代わって「網ヒビ」によ養殖方法がた千葉県から伝わり、海苔の生産量は一段と上がりました。
戦後、大師の海は臨海工業地帯として埋め立てられ、高度成長期を経て昭和50年頃にはすべて埋め立てられます。
しかし、今でも往時の伝統を受け継ぐように川崎大師の表参道には高級海苔店がのれんを掲げ、若宮八幡宮内の厳島神社には「海苔弁天」が祀られています。

蛤
蛤

江戸時代、多摩川河口は遠浅の干潟が広がり「大師の海」と呼ばれていました。そこは蛸やシャコ、蛤、赤貝などの豊かな漁場でした。
江戸時代前期の寛文年間(1661〜1673年)には大師の浜でとれた蛤を味噌仕立てにした「蛤鍋(はまなべ)」が名物になり、門前町にはそれを出す料理店が軒を並べていたといいます。日本橋を日の出とともに発ち、六郷を渡し船で渡って大師詣でを済ませた後、蛤鍋に舌鼓を打ち、日が暮れるころ家路につくという日帰り旅が、当時流行したそうです。
かつて大師門前では蛤鍋を出す料亭は数十軒あったそうですが、現在では1軒を残すだけ。しかし「大師の海の蛤」は、今でも多くの人の心を掴んで放しません。

ページトップへ
下部の影